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2026-01-13

“パブロフの犬”の新たな脳内機構の解明 ~条件づけ学習における記憶痕跡細胞の役割~

寄稿者:九州大学 / 京都大学

《ニュース概要》
■ポイント
1.条件づけ学習において、条件刺激を伝える脳内の神経細胞と活動動態は不明であった。
2.マウスを用いた文脈依存的な恐怖条件づけ学習において、海馬の記憶痕跡細胞の特定のタイミングの神経活動が条件刺激として働くことを発見。
3.記憶形成の仕組みの更なる解明、PTSD や依存症などの精神疾患の理解・治療への期待。

■概要
パブロフの犬で有名な条件づけは、餌などの「無条件刺激」と、ベルの音のような「条件刺激」が結びつけられることにより生じる連合学習です。この学習が成立して記憶が形成されるためには、条件刺激が無条件刺激よりも少しだけ先行したタイミングで起きる必要があることが、100 年以上も前から行動学的に知られています。しかし実際の脳内で、条件刺激を伝える具体的な神経細胞やその活動の様子は不明でした。

このたび、九州大学大学院理学研究院の松尾直毅教授、小林曉吾助教、曾我部蓮(システム生命科学府大学院生)および共同研究者の寺前順之介准教授(京都大学大学院情報学研究科)らの研究グループは、海馬内で文脈情報を表現すると考えられる記憶痕跡(エングラム)細胞に特有の神経活動が、条件刺激として働くことを明らかにしました。

記憶痕跡細胞は、目に見えない記憶の細胞レベルの実体として世界中で注目されていますが、記憶の形成前には同定できないため、その学習中での神経活動状態や役割については未だ理解が進んでいません。本研究グループは、文脈依存的な恐怖条件づけ学習中のマウス海馬において記憶痕跡になる予定の細胞の活動動態を、独自の遺伝学的手法とカルシウムイメージング(※1)法を用いて計測しました。その解析の結果、無条件刺激を提示する 1〜2 秒前に、記憶痕跡細胞が一時的に強く活性化することが明らかになりました。さらに、このタイミングの神経活動を光遺伝学(※2)手法により抑制したところ、記憶の形成が阻害されました。

今回の発見は、古くから知られている行動学的な現象の脳内基盤を最新の科学により実証した好例であり、ヒトを含む動物の行動選択に重要な役割を担う条件づけ学習と記憶の脳内機構のさらなる理解に貢献します。また、条件づけの制御の破綻により生じると考えられる PTSD や依存症などの精神疾患の原因究明や治療法の開発に役立つことが期待されます。

本研究成果は米国の総合学術雑誌「Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS)」に2026 年 1 月 12 日(月)(日本時間)までに掲載される予定です。

■研究者からひとこと:
記憶痕跡細胞の学習前や学習中での神経活動動態は、私が記憶痕跡に関する論文を最初に公表した 15 年ほど前から大きな疑問でしたが、今回の研究により、ようやくその一端を明らかにすることができました。一つ疑問が解消されると、それに関連する新たな疑問が湧いてきますので、順に明らかにしていきたいと思います。(松尾直毅)

【研究の背景と経緯】
パブロフの犬で有名な条件づけは、100 年以上前にロシアの生理学者イワン・パブロフによって報告された基本的な連合学習です。例えば、犬にベルの音を聞かせてから餌を与える訓練を繰り返すことで、次第に犬はベルの音を聞くだけで餌をもらえることを予測し、唾液を分泌するようになります。この場合、ベルの音を「条件刺激」、餌を「無条件刺激」と呼びます。つまり元は中立で意味を持たなかったベルの音が、条件づけの成立後には餌を予測させる合図や前ぶれの信号になります。条件づけが効率よく成立するためには、条件刺激が無条件刺激よりも時間的に少し(一般に 0.5〜数秒)先行して与えられることが必要で、両者の提示タイミングが重要であることが行動学的に知られています。しかし実際の脳内で、条件刺激の信号が具体的に、どの神経細胞の、どのような神経活動状態により表現されているのかは不明でした。

また近年の研究によって、条件付けなどの学習・経験により脳内に形成される記憶は、記憶痕跡(エングラム)細胞と呼ばれる一部の神経細胞間のネットワーク状態として保存されると考えられています。記憶痕跡細胞は、目に見えない記憶の実体ともいうべき重要な細胞集団であるため世界中の研究者から注目を浴びており、その神経活動の理解は極めて関心の高い問題です。しかし、記憶痕跡細胞は、学習による神経刺激によって c-fos などの最初期遺伝子群(※3)が発現誘導されることを目印として同定されるため、学習前や学習中には、どの細胞が最終的に記憶痕跡細胞になるのかは分からず、その活動動態や役割も未だ不明です。

【研究の内容と成果】
本研究グループは、条件刺激の脳内神経基盤を明らかにするために、マウスの文脈依存的恐怖条件づけ(※4)をモデルとして研究を行いました。文脈依存的恐怖条件づけでは、文脈(電気ショックが与えられる環境)が条件刺激、電気ショックが無条件刺激であると一般に考えられていますが、文脈は多様な感覚情報によって構成されるため、文脈情報を表現する神経活動の実体は謎であるのが現状です。文脈の記憶は海馬で形成されると考えられていることから、海馬の記憶痕跡細胞が特定の文脈を表現しているのではないかと考えました。そこで私たちは、超小型の内視型蛍光顕微鏡を利用したカルシウムイメージング法により、条件づけ学習中における海馬の記憶痕跡細胞の神経活動動態の計測を行いました。

独自の遺伝学的手法により、計測した約 1400 個の神経細胞のうち 14%が記憶痕跡細胞と判定され、それらの神経活動データを詳細に解析して、周囲の他の神経細胞と比較した結果、記憶痕跡細胞に特徴的な神経活動を見出すことができました。一つ目は、条件づけが行われる新しい環境(文脈)にマウスが入った直後から 90 秒間ほど持続する強い活動。二つ目は、無条件刺激である電気ショックが与えられる 1〜2 秒前の一時的な強い活動です。特に電気ショック直前の神経活動は、行動レベルで知られている条件刺激と無条件刺激提示の時間的タイミングと合致しており、このタイミングでの神経活動が高かったマウス個体ほど記憶が強く想い出されることも明らかになりました。さらに光遺伝学の手法を用いて、電気ショック直前のわずか5秒間、海馬の神経活動を抑制するだけで、文脈依存的恐怖記憶の形成が阻害されることを明らかにしました。

今回の研究結果から、文脈依存的恐怖条件づけにおいて、海馬の記憶痕跡細胞の活動が条件刺激の役割を担うことが示され、以下に述べるような文脈依存的恐怖記憶の形成機構に関する新しいモデルが提唱できます。まず動物が新しい環境に入ると、海馬の一部の神経細胞が強く活性化して、文脈を表現する記憶痕跡細胞が形成されます。これらの文脈情報を保持する記憶痕跡細胞のうち電気ショックの直前にも再び強く活動した神経細胞が、無条件刺激である電気ショックの信号との連合に参加することにより、特定の文脈情報と結びついた恐怖記憶が形成されるというものです。

本研究グループの研究により、100 年来の謎の一つである条件刺激の脳内表現の実体を明らかにすることができました。しかも、それが近年注目されている記憶痕跡細胞の神経活動であったことから、古くから知られている現象の神経基盤を現代の最新科学で実証した好例であるといえます。

【今後の展開】
条件づけは、ヒトを含む動物の行動選択に決定的な役割を担う代表的な学習機構で、無条件刺激が今回の研究のように嫌な刺激の場合もあれば、パブロフの犬のように報酬となる場合もあります。PTSD や依存症といった精神疾患は、この機構が適切に制御されないことによって引き起こされると考えられますので、条件づけの神経機構の理解がより深まれば、制御困難な嫌悪・報酬記憶や行動の消去方法の開発につながる可能性が期待できます。また、なぜ条件刺激と無条件刺激のタイミングの数秒間のずれが必要であるのかに関する分子機構の解明も重要な課題の一つです。

【参考図】
上図:条件づけ学習が生じる瞬間の海馬の神経活動

海馬において記憶痕跡になる神経細胞は、怖い出来事が起きる(無条件刺激)直前の2秒間ほど、周囲の他の神経細胞に比べて強い活動を示した。この一時的な神経活動は、条件刺激を伝える神経活動が起きるべき時間枠と一致する。

【用語解説】
(※1) カルシウムイメージング
一般的に細胞の活性化時には細胞内カルシウムイオン濃度が上昇することから、GCaMP などのカルシウムセンサー蛍光タンパク質などを用いて細胞内カルシウムイオン濃度の変化を蛍光顕微鏡などで可視化することにより、細胞の活動動態を経時的に計測する研究手法。

(※2) 光遺伝学
特定の波長の光に応答して機能するタンパク質を利用する研究手法。特にチャネルロドプシンやハロロドプシンなどのイオンチャネルやポンプを目的の神経細胞に発現させ、任意のタイミングで光照射することにより、自由行動下における動物脳内の神経細胞の活動を高い時空間的分解能で操作することができる。

(※3) 最初期遺伝子群
細胞に刺激がない基底状態では遺伝子発現(mRNA やタンパク質の合成)がほとんど生じず、刺激に伴い迅速かつ一時的に遺伝子発現が誘導される遺伝子群の総称。

(※4) 文脈依存的恐怖条件づけ
恐怖の出来事(主に電気ショックが用いられる)と、それが生じた特定の文脈(環境)を関連づける連合学習。特に海馬と扁桃体が必要であることが知られている。

【謝辞】
本研究は JSPS 科研費 (JP18H02543, JP25115003, JP21H02597, 25K02312, JP20K15932,JP24K02064)等の助成を受けたものです。

【論文情報】
掲載誌:Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS)
タイトル:Neural Substrate of Conditioned Stimulus for Associative Learning in the Hippocampus
著者名:Kyogo S. Kobayashi, Ren Sogabe, Tsuyoshi Tatsukawa, Jun-nosuke Teramae, and Naoki Matsuo
DOI:判明次第、公開予定